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tomojaponezinho(本名
japonezinhoとは小さな日本人の意味。
ブラジル留学中に街の人に、『japonezinho!』と声をかけられる機会が多かったことから。

 

1975年(S50年)9月17日千葉県生まれ

身長163cm、サッカーでのポジションはMF、左右のサイドバック等。

 

小学校3年頃からの『キャプテン翼』ブームによりサッカーを知る。

当時は地域のソフトボールクラブの影響もあり、野球少年に近かったが、その頃は影響されて家の前の壁にボールを蹴っていた。

 

四街道西中学校進学の際、先輩に勧められてサッカー部へ入部。

 

船橋市立船橋高校へ一般入学。

すぐサッカー部を退部。

 

1年生時はジェフユナイテッド市原(当時)ユースBチームに参加。

2年生時以降はジェフユナイテッド市原千葉スクール(当時)に回され、事実上昇格のチャンスを閉ざされる。

そのため並行してスクールに参加しながら、当時千葉県社会人1部リーグ所属のマックスでプレー。

 

高校卒業後、1年間アルバイトをしながら、ブラジル行きの準備。

その頃、偶然日系のブラジル人達と出会う。

 

ブラジル人がブラジルより持ってきた、ペナルティ社のフットサルボールを初めて蹴る。

『日本にはFUTEBOL de SALAO(フッチボール デ サロン、フットサルの原型)ないの?』

というブラジル人の一言で、体育館を借りてフットサルに触れる。

 

1995年4月、ブラジルへ。

サンパウロ州、サントス市のジャバクアラACのジュニオールで練習。

同じ街には有名なサントスFC、ポルトゲーザ・サンチスタという2つのプロクラブがあった。

ジャバクアラにはサントスFCから移籍してきた選手が多数在籍していて、非常にレベルが高いクラブだった。

(ちなみに、94年の17歳以下サンパウロ州選手権で優勝したサントスFCから多数の選手が移籍してきていた)

そのレベルの高さにカルチャーショックを受けた。

※余談になるが、ジャバクアラの寮には、元FC東京、2008年現在湘南所属のジャーン(JEAN)がよく遊びに来ていた。

 

1995年5月、ヴィザの関係で帰国。

 

1995年9月、再びブラジルへ。

ミナス・ジェライス州、イタジュバ市、ユーラカンFCへ。

若い選手が多数在籍するアマドール(アマチュア)のチーム。

2週間ほど練習に参加し、ジャバクアラへ。

 

ジャバクアラへ戻ると状況が急変していた。

 

新しい選手の加入、数名の選手が退団…ブラジルの競争の現実を知る。

そして、練習参加を金銭面で拒否される。

その後サンパウロ州、サンジョゼ・ドス・カンポス市、ECサンジョゼへ。

1週間ほど練習に参加。

 

11月、ユーラカンFCへ戻る。

 

ブラジルでの日本人留学生の現実。

正直、失意の連続。

MFでの出場機会に恵まれず、ラテラウ(サイドバック)での出場を志願。

 

12月、クラブの長期休暇の合間で日本へ。

 

1996年1月末、ブラジルへ。

ユーラカンFC。1回公式戦のベンチに入るも、出場機会なし。

前日に『明日使うからな』と言われていたが、アウェーで0−1の敗戦。

そのチーム事情で日本人を使う余裕はなかったということだろう。

 

2月、サンパウロ州クルゼイロ市、ウニオン・クルゼイレンセへ。

クラブの会長の好意により、アマチュアの公式戦出場の機会にも恵まれる。

10試合出場、0得点。

ポジションはメイオ・エスケルドかメイオ・ヂレイト(中盤の左か右)。

本来の中盤でのプレーができた。

 

1996年9月、ヴィザの関係で帰国。

 

日本では数チームのセレクションを受けるも不合格。

日系ブラジル人達と楽しんでフットサルに触れる機会に恵まれる。

1997〜1999、イーグルス千葉(当時千葉県1部、2部リーグ)所属

2000 SAKURA SC

 

このころフットサルを本格的に始める。

2000〜2001年、Snrイーグルス

2001年、fantasmaFUTSAL創立

2006年アクセサリー、アパレルブランド、SOPHIA APARECIDA設立

2010年〜四街道パワフルスポーツクラブ、ゼネラルマネージャー

 

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